「つげ義春を旅する」
高野慎三



筑摩書房 2001年4月10日刊 本体価格860円





高野慎三

本書に収録した文章は、季刊誌『まんだらけ』に発表したものである。学生時代に野田宇太郎氏の「文学散歩」に参加したことがあり、それがなかなか楽しかった。「文学散歩」にならって「つげ義春マンガ散歩」をこころみた次第である。
 連載の第八回までを『つげ義春幻想紀行』として権藤晋の筆名で立風書房から刊行した。そのあとの連載分を追加したのが本書である。そして、あらたに、つげ義春氏との語り下ろしの対談も収録することにした。



「ねじ式」のモデルになった風景

「ねじ式」でSLが着いた路地 千葉県外房・太海



あの頃の調布

対談 つげ義春・高野慎三

高野 つげさんが水木しげるさんの仕事を手伝うために錦糸町から調布に越してきてから36、7年になるわけですよね?『ガロ』に「チーコ」を描いたのはどっちにいたときですか。
つげ まだ錦糸町にいた頃です。
高野 とすると、調布に移ってから「初茸がり」を描いたんですね。引っ越してくる以前に調布に来たことはあったんですか。
つげ 一度だけですね。
高野 水木さんの面接で?
つげ 水木さんが手伝いをさがしているというのを聞いて、自分で志願したんです。そのときはじめて水木さんの家で水木さんに会ったんですね。
高野 志願したというのは、誰かの紹介があったんですか。
つげ 青林堂の長井さんが、水木さんが誰か上手い人はいないかとさがしているよ、といったんですね。ぼくはすでに独立していたから、長井さんはぼくにいったわけではないんですね。だけどぼくは食えなかったから、自分がいきますとといったんです。そうしたら水木さんもオーケーだったんです。その頃、水木さんは急に忙しくなったからね。アシスタントの北川君がいたけど、彼は素人だからね。やっぱりプロでやっている人の手伝いが欲しくて、長井さんに頼んであったんですよね。
高野 その時、水木さんの手伝いに向いていると思ったんですか。
つげ なにも考えなかったですね。水木さんも変だよね、ぼくが志願したら、それでオーケーなんだから(笑)。ぼくの力量なんてわからないのにね。マンガのプロは絵を描くスピードが要求されるんですよね。実際に描いてみせなければ速いか遅いか判断できないわけだけれど、一応ぼくはプロだったから信用してくれたのかな。
高野 で、生まれて初めて調布にやってきて、錦糸町と比べてどんなふうに見えました?
つげ 最初からよかったですね。すぐに馴染んでね。それまで都会の繁華街にいたわけだけど、田舎っぽい所にきてむしろよかったですね。当時はものすごい田舎だったけどね。
高野 調布に移ってすぐにあのラーメン屋の二階を借りたんですか。
つげ 最初の10日ぐらいは水木さんの二階にいたんです。そのあいだに水木さんがラーメン屋をさがしてくれたんですね。ですから、その10日のあいだは水木さんの家族と一緒に食事をしていました。奥さんにすれば、ぼくの分まで食事の世話をするのは大変だったと思うんですよ。
高野 あの頃の調布は人家も少なくて殺風景でしたよね。水木さんの家のまわりも畑ばかりでした。そのどの辺がよかったんですか。
つげ 自然の景色かな。緑がおおかったですからね。深大寺の方までよく行ってました。

高野 近くに深大寺があるのは知っていたんですか。
つげ はじめは知らなかったし、そのお寺が有名なお寺だということも知らなかったね。でもなかったんですけれども、まだ昔の宿場の雰囲気がのこっていましたから、見馴れない景色が新鮮に思えたんですね。ふつうは賑やかな場所からさみしい所に来ると、つまらないと思うらしいけど、自分は逆なんだよね。葛飾区の立石や錦糸町より調布のほうがずっとよかった。生活に窮して都落ちというところなんだけど、ぼくなんか生まれてからずっと落ちめの人だったからなんでもなかった。
高野 そうですか。普通は下町から調布にやって来たら退屈すると思うんですけどね。
つげ それはなかったなあ、最初から自然に馴染んじゃったね。だから今、調布がこうして賑やかになったけど、つまらなくてね。残念でしょうがない。水木さんは調布には美人がいないと、以前嘆いていたけれど、ぼくは女より自然の方がすきですね。
高野 以来、調布に住みつづけているわけですけど、住み心地のよさって何なんですか?
つげ やはり自然の景色が残っているいるのが一番ですね。以前は、近藤勇の墓のある龍源寺のある方まで行ってましたね。その頃は、あの辺りはすごい田舎で、まだワラ葺きの農家がけっこう残っていましたからね。それが嬉しくてね。なんの目的もなく行って、そんな風景の前に佇んで気分にひたっていたんです。いつも一人で行ってましたね。


(以下略)


2000年11月調布にて