蒸発旅日記

1981年『夜行』10号 随想・つげ義春より

 

 深沢七郎の「風雲旅日記」を読むと――旅行は見物をしに行って帰ってくるのだが、私の場合は、ちょっとちがって、行ったところへ住みついてしまうのだった――というすごい旅のしかたをしているが、私も以前これと似たような旅のしかたをしたことがある。住みつきこそしなかったけれど、住みつくつもりで出かけたのである。
 昭和四十三年の初秋だった。行先は九州。九州を選んだのはそこに私の結婚相手の女性がいたからだった。といっても私はこの女性と一面識もなかった。二三度手紙のやりとりをしただけの、分かっているのは彼女は私のマンガのファンで、最近離婚をし、産婦人科の看護婦をしているということだけだった。「どんな人かなあ」と私は想像してみた。「ひどいブスだったら困るけど、少し位いなら我慢しよう」と思った。とにかく結婚してしまえば、それが私を九州に拘束する理由になると考えたのだった。そしてマンガをやめ適当な職業をみつけ、遠い九州でひっそり暮そうと考えた。「離婚をした女なら気がらくだ。」彼女はきっと「結婚してくれるだろうと私は一人決めしていた。




 二十数万円の所持金と、時刻表をポケットにつっこみ身軽に新幹線に乗りこんだ。私の間借りしていた部屋はそのままだが机と蒲団しかないので、私が消えてしまっても家主は困らないだろう。
 名古屋で紀勢線に乗替え松阪で松阪牛を食い一泊した。翌日近鉄で大阪に着いたのは昼前だった。九州行きの列車の発車時刻まで一時間あった。私は駅の地下でコーヒーを飲みながら不安を静めようとしていた。名古屋までは調子よく出て来たが、大阪から先へは行ったことがなく急に心細くなってしまったのである。これが普通の観光旅行なら気持も浮かれるのだが、そうではないので決意が鈍りそうであった。松阪に寄道をしたのも迷いが生じたからだった。
「やっぱりやめようかな」。そう思い、私は駅前の中央郵便局へ行った。中止をするにしてもこのまま東京へ引返しては面白くないので、千葉へ行こうと思ったのだ。千葉には落着いて昼寝でもしていられる宿屋がある。そこへ予約の手紙を出したのである。大阪近辺で二三日見物をし、それから千葉へ行くつもりでいた。
 また大阪駅へ行くと九州行きの発車の時刻がせまっていた。手紙を出したものの私はまだ迷いが残っていた。今決行しなければもう二度とチャンスはないかもしれない。このまま日常に戻ってはまたウツウツとした日を過さねばならない、それもうっとうしいことだ。そう思うと、私は役者が舞台へとび出して行くような気持ちで、小倉行の切符を買い列車にとび乗った。
 列車が動きだすと私はもう観念したが「蒸発をするのは案外むつかしいものだな」と思った。それは現実の生身の役者が舞台へとび出し別の人間になりきるのに似ている。役者は舞台のそでで緊張と不安のあまり吐気や便意をもよおすそうだ。しかし舞台は幕がおりる。蒸発は幕がおりないから演じ続けなければならない。そしてやがて演じ続けることが日常となり現実となるだろう。そうわかっていても私はもうとび出してしまったのだ。
 列車はウーンウーンと鈍い音を響かせていた。私は急には別の人間になりきることはできないで、まだ緊張が続きずっと目を閉じていた。広島を過ぎると安芸の宮島を紹介する車内放送があった。そのとき目をあけ窓の外へ視線を移すと、大きな蠅が一匹窓ガラスにとまっていた。車内は冷房がききすぎて、蠅は弱っているのかじっと動かないでいた。私は宮島を眺める気もなく蠅を見続けていた。――この蠅は私と同じように大阪から乗ったのだろう。するとこのまま九州へ行くことになる、九州へ行ったらもう戻ることはできない。そうしたら九州でどのような生きかたをするのだろうか――そんなことを私は考えていた。
 小郡を過ぎたあたりで、通路をへだてた隣りの若い女性に私は声をかけた。
「九州はどんなところですか」
 と尋ねると、気さくそうな女性は、
「九州見物ですか、それなら水前寺公園がいいですよ」
 と教えてくれた。
「その公園はどこにあるのですか?」
 と、また尋ねると、
「熊本です。私は熊本に帰るのでよかったらご案内してあげます」。
 と云った。彼女は大阪で女工をしていて熊本に帰るのだと云う。私は「熊本もいいな」と思った。そして、この女性について行って彼女と結婚しようと考えていた。相手は誰だっていいのだ。私はまた迷った。小倉にいる看護婦さんはまだ見たこともない人だ。こっちの彼女はもうだいたい人柄もわかり悪くない感じだ。ただ気になるのは、この女工さんは熊本の実家に帰るのだと云う。実家には親も兄弟もいるだろう、そうなると面倒くさいことになる。けっきょく私はあきらめて小倉で下車をした。
 小倉は日が暮れていた。駅前はネオンの海である。私は繁華街で宿探しをするのは慣れていない。どの方向へ行ったらよいのか見当もつかずうろうろしていた。すると旅館案内所が目にとまり、申込むと新月旅館を紹介された。旅館からの迎えは小肥りの中年女が歩いて来た。駅を背にして右の方角に並んで行くと魚町商店街にはいった。小倉で一番の盛り場らしい。新月旅館はパチンコ屋の向いにあった。盛り場の中の宿という連込みを想像し佗しくなるが、中に通されると堂々たる商人宿だった。入れかわり立かわり四五人の女中さんが部屋に来たが、皆中年の気さくそうな人柄なのでほっとした。私は旅に出て宿を決めるまでは安心できない性分なので、ようやくくつろいだ気分になれた。
 夜九時頃、看護婦の(仮りにS子としておこう)のいるT医院に電話をすると、日曜日なのでS子は休みだった。住込みのはずなので何処かへ出かけたのだろう。
 翌日は早々に朝食を済ませ外へ出てみると、通勤通学の人々が忙しげに行交い通りは混雑していた。これから一日が始まろうとする活気が満ちていた。私は自分だけ生活から離れた気分でいることがうしろめたいような寂しいような気持になった。
 私はこれからこの九州で生活をすることになるのだからそれらしく振舞ねばと思った。さいわい私の服装はよそ行きのそれではなく普段着のジャンパー姿であった。私は土地の人間になったような気持を装い駅前の上島珈琲店に入った。店の中は早朝にもかかわらずざわついていた。私は隅に席をとり、他所者の緊張が現われないよう気を配りながら新聞をひろげた。早朝の忙しさの中で新聞をひろげるということは時間をおしみいかにも用ありげで、そこここに私と同じように新聞をバサバサさせている者がいる。私は職業欄と貸間に目をやった。まず第一に必要な問題であったが、職業欄と貸間に目をやることで自分をカモフラージュしようとする気持が働いた。
 上島珈琲店を出ていったん宿に戻り昼食時に再び外へ出た。また自分を試すかのように土地の者が利用する一膳めし屋で昼食をすませた。めし屋のおばさんは愛想よく客に話しかけているので、もし私に声をかけて来たらどうなるか、私の言葉使いは東京弁である。地所者であることがバレたらと思うと、私は内心ヒヤヒヤしていた。
 そのあと時間つぶしに街を散歩したりパチンコをしたり、本屋をのぞいたりしているうちに次第に緊張がほぐれ、私は身も心も解放されて行くのを覚えた。どうゆうものかいっぺんに気がらくになってしまったのである。本屋では「人間存在の心理学」という本を買った。退屈しのぎに宿でねころんで読んでみたが、面白くない本だった。人間の存在について解説しているのだが、いくらリクツをこね回しても、生身の感情はどうすることもできないのだから「役に立たぬ本だな」と思い、途中でなげだしてしまった。
 夕食前またS子のいるT医院に電話をするとS子が出た。私が小倉にいることを告げると頓狂な声を出して驚いていた。S子はすぐとんで来た。小柄でやせ型の美人であった。私はまぶしいほどであったが少し失望した。美人にはちがいないが、私のあまり好みのタイプではなかったのである。早口のお喋りだった。
「私の弟がねツゲさんの大ファンなの。それで私もファンになったのです。私は○○町に六畳と三畳と台所の部屋を借りてあるんです。冷蔵庫やテレビもあるんですけど、勤めが住込みのような状態だからたまにしか部屋に帰ることができないんです」
 と、なにがおかしいのかやたら笑声をあげながらまくしたてた。私は陽気な人だなと思った。少し気にいらない点もあるが、部屋も所帯道具も揃っているのなら結婚してしまおうかなと思った。しかし、
「私の部屋にくれば弟も喜んで来るわよ」
 と云うのでがっかりした。私は弟なんかがのっそり現れては困るのだ。私は深刻なのである。九州まで蒸発して来たのだからもっと私の深刻さに同調してほしいと思った。
 彼女はなおも早口で離婚をしたいきさつ、その失意で山陰の萩へ旅行をし、自殺を考えたことなどをベラベラと疲れもせずに続けた。私はうんざりした。早く寝てしまいたいと思った。
「それで今夜は泊れるんですか」
 とたずねた。だが無断で外泊は禁じられているとのことだった。また来週の日曜日でないと会えないといって十時頃帰っていった。私は一週間待たされることになった。三日間はパチンコをしつづけていたが、どうにも退屈で旅行に出た。宿のおかみさんに杖立温泉、湯布院、湯の平温泉を巡るコースを教えられ出かけた。別府まで行きそこからバスで湯布院へ行き一泊し、二日め湯の平の白雲荘に投宿した。
 湯の平は湯治場だった。年寄りばかりが多かった。私は夜、空腹を覚え散歩に出てバナナをひとふさ買った。そしてストリップ見物に出かけた。宿の眼下を流れる川の対岸の木造の宿屋でストリップは行なわれていた。私はバナナを浴衣のふところに入れ、宿の離れの二階へ上って行った。離れにはいくつかの部屋があったが、宿泊客は一人もいないようであった。電気も消えうす暗い中に一ヶ所電灯のついている部屋があったので、障子の隙間からのぞくと、ベレーをかぶった小柄な初老の男と、踊子らしい三十前後の女と二人だけでテレビを見ていた。私は隣りの十畳ほどの部屋に案内された。客はほかに一人もいない。
 部屋にはベニヤで一段高く粗末な舞台が造られていた。その下にはテーブルとアルミの灰皿が三ツと大きな空の火鉢があるだけだった。舞台のそでに(一回の公演時間=レコード七曲=約二十五分右ご諒承願います)と下手な文字でかいてある。舞台の背景は隣室の楽屋との境いである襖だけで、その中央に花輪が一ツあるだけのさみしいものだった。私は煙草をふかしながらねそべって待っていると、楽屋からテレビの野球の音が聞え、踊子と初老のマネージャーが野球の話をしているのが聞えた。話をしながら仕たくをしているらしい。やがてマネージャーが「長らくお待たせ致しました」とカン高い声で一言挨拶し、レコードが演歌調の音を佗しげに流した。
 踊子はカツラをつけ紫の着物で現われた。下手な踊りで三曲までは着物の裾を乱す程度であったが、四曲目に帯をほどき、朱色の肌着のあわせを開きチラチラ陰部を露出させた。私はバナナを買った残りの小銭を千七百円舞台に乗せ、股を開くよう手振りで指示した。彼女は真面目な顔でちらとそれを見た。私は助平な気持だけでそんなことをしたのではなかった。佗しげな雰囲気に酔い、佗しげな客になってみたかったのである。しかし、そんな大胆な真似ができる自分が不思議でならなかった。私は九州に来るまでは緊張と不安のかたまりだった。それが急に開き直ったような気持になってしまったのである。
 舞台の光に大きな蛾が一匹舞っていた。踊子は恐ろしげにマユをしかめ蛾をさけるように踊っていた。舞台の端に蛾がとまったので私は灰皿をすばやくかぶせてやった。彼女は少し歯を見せ笑った。そして私の目の前に来て大きく股を開いてみせた。私は思わず苦笑をしてしまった。
 終了後舞台の電気を消しにマネージャーが出て来たので、三人で舞台の端に坐りバナナを食べた。彼女は「王と長島はどうだったの」と野球の結果を気にしていた。大股開きの舞台が終ったあと、何事もなかったように、こうして野球の話をしていられる生活も(いいな)と私は思った。(この人たちにこのままついて行きドサ回りでもして暮そうか)とも思った。自分なら看板を描くこともできるし、その気になれば呼び込み位いできるかもしれない……。
「景気はどうですか」
 と私はたずねてみた。マネージャーは、
「この町はさっぱりです。だけど契約だからしかたがありませんわ」
 と、まだしばらくここに滞在するようであった。私はすぐにでもドサ回りに出発するかと思ったのでがっかりした。
 あくる日は杖立温泉の千歳旅館に泊った。また宿の近くにヌードスタジオをみつけ、夜の七時頃行ってみると、まだ時間が早いせいか客は一人もいなかった。舞台の脇の廊下で踊子が一人で化粧をしていたので話かけてみると、九時頃に来てくれというので出直すと今度は満席だった。といっても客席は十人ほどしか坐れない。
 踊子はネグリジェ姿で舞台に現われると、いきなり、
「そちらのお兄さんすましてないで前へいらっしゃい。東京から私を見に来たんでしょう」と私に冗談をとばした。開演前、私と二人きりで話を交したときは無口で恥かしそうにしていたのが、舞台に出ると人が変わったように大胆だった。湯の平の踊子とくらべると若くてグラマーで均整のとれた体つきをしていた。私は熱心に彼女を見つめた。彼女もなぜか私ばかりを見ながら踊り続けた。私は(脈があるぞ)と思った。
 宿に戻ってからも、私は彼女の視線が意味ありげに思え寝つけなかった。睡眠薬を常用していたがそれでも寝つけず、酒に酔ったような気分でもう一度ヌードスタジオに出かけた。一回の公演の終ったあとで客席は空だった。私は次の開演まで客が集まるのが待ちきれず、一人で五人分の料金を払い舞台を独占した。
 彼女はバタフライ一つをつけただけで踊ろうとしたが、私はやめさせ自分の目の前に坐らせた。私は客席の椅子に腰をおろし、彼女は舞台の前に出て正坐した。ちょうど目の前に彼女の太ももがあったので私は手を乗せ、感情が高ぶり、次に頬を寄せた。互いに無言のままであった。私はなぜかせつなさがこみ上げてきて、彼女の腰に手を回しすがりつくように抱きしめた。彼女もやさしく私の髪をなぜた。舞台に流れる甘いメロディの効果もあったのだろう、私は、
「こうしているだけでいいんだ、こうしていると何となく安心できるんだ」
 と甘いセリフがすらすら口をついて出た。そして、
「今夜つきあってよ」
 と云うと、彼女はこくりとうなずいた。
「でもネエさん(座長)に無断で外泊はできないので相談してみてくれる?」
 と云うので私はまごついた。だがネエさんは楽屋で見ていて察知したのか「話はついたの?」と苦笑まじりに承諾してくれた。そして、こうゆう商売柄売春行為と誤解されると困るから、彼女を宿に出向かせるのはやめ、別に宿をとってくれと云った。
 私はいったん宿に戻り、彼女の舞台のハネるのを待った。それにしてもまさかストリッパーとこういう成行きになるとは思いもよらなかった。ああゆうヒトには決って恐いヒモがついているものだが、私はそんなことはおかまいなしに感情のおもむくまま行動をしていた。ふだんの自分では考えられないことで、私は蒸発をしてしまってから自分の心がどこかへ消えてしまったような、すべての拘束から解放され宙ぶらりんのような状態になっていた。鎖の切れた小舟のようにただ波まかせであった。
 彼女は十一時に舞台がハネそれから風呂に入ってくるはずだった。私は頃合をみて指定の宿へ出かけた。宿は連込み専門だった。私は部屋で寝ころびながら雑誌を見て待った。(彼女は本当に来るのだろか、話が少しうますぎやしないか)と私は少し心配だった。
 彼女は約束の時間より三十分ほど遅れて来た。風呂で化粧を落とし、髪も短く別人のように現われた。舞台ではかつらをつけていたのだった。素顔の彼女はごく平凡な娘のようだった。二十才前後だろうか恥ずかしそうにうつむいているだけだった。私も話題に困り、おきまりの身の上話を訊ねた。彼女は博多で女工をしていたが、男にだまされこの杖立温泉に売りとばされたのだった。
「たびたびこの宿を利用しているの?」
 ときくと、
「ずっと前一度お爺さんと、嫌だったけど無理やり頼まれて………」
 と答えた。私は少し気がらくになった。彼女は、
「東京の人はやさしそうだね」
 と云った。
「なぜ?」
 ときき返すと、
「言葉がやさしいからね」
 と云うのである。
 彼女は舞台の淫猥な姿態とはほど遠い未熟さで、まるで棒のようだった。私は彼女がいとおしくなった。
 翌朝十時頃目ざめると彼女はいなかった。枕元の私の飲んだ睡眠薬の効能書の裏面に置手紙が走り書きしてあった。
  あなたと文通がしてみたいのでお便り下さいませ。
  あなたが云ったように髪を長くします。
  黙って帰ってしまって申訳ありません。
  でも気持良さそうに眠っていたのでさよならしました。
  あなたもいろいろ考えずに頑張って下さい。
  お手紙くらい下さいね。
   住所 小国町××× M・T方      F・M子
 私はこのまま別れてしまっては悪いような気がした。いったんもとの宿に戻り、身支度をしてスードスタジオに挨拶に行った。お礼もしたかった。だが彼女は散歩に出たとかでいなかった。
 私はバスターミナルへ行き十二時発のバスに乗った。今日は土曜日、小倉でS子と逢う約束がしてある。土曜の夜から日曜の夕方までがS子の自由時間なのだ。
 バスは発車まで十分ほど間があった。私は最後部の座席に掛けM子に会えないで良かったと思った。こんな場合の別れの挨拶は苦手なのだ。だが名残りおしい気持もないではなかった。それは彼女への思慕ではなく、彼女と結婚をした場合を想像してのことだった。私はまた、(ストリッパーのヒモになって方々の温泉地を流れ歩くのも悪くないな)と思ったのである。
 私は去り難くなりバスの後方へ目をやった。と、そこにM子の姿が目に映った。M子は乳母車を押していた。座長の子供の子守をしながら散歩をしているのだった。まぶしく照り返すアスファルトの道をぼんやりした面もちで、バスの後方に近ずいて来た。私は身をかくすように座席に体を沈め、後髪をふりきるように目をとじた。バスは発車した。




 日田で汽車に乗りつぎ四時に小倉に着いた。七時にS子が来て、今日は実家に戻るつもりで外泊の許可を得てきたと、いいわけがましく云う。彼女は弟のほかに実家まである。なぜこんなときに親兄弟の話をするのか、私はまたしても失望した。しかし蒸発をする条件としては、部屋も借りてちゃんとした勤めもしているS子が最も適当な相手に思えた。彼女は働き者で男につくすタイプである。私は怠け者だからちょうど良いかもしれない。
 私は迷った。迷ったままS子と寝た。彼女は翌日も実家へ帰らず一日中宿で過し、夕方五時頃、患者の食事の用意をするため帰って行った。S子はこのまま私と生活を共にするとは考えていなかったようで、ひとまず東京に帰り、ゆっくり考えてくれという意味のことを云って別れた。
 東京へ戻ってからも私は真直ぐ家に帰る気がせず、神田の宿に二日間泊まり考え続けたが、蒸発がいったん元に戻ってしまってはもうおしまいだと思った。その後S子からは度々手紙が来たが、ついに私は一通の返事も出さなかった。
 いま思うと軽薄な真似をしたものだと恥いるばかりだが、私の蒸発はまだ終わってはいない。ものは考えようで、現在は妻も子もあり日々平安だが、私は何処かからやって来て、まだ蒸発を続行しているのかもしれない、などと考えることもある。

 



1981年刊『夜行』10号 随想・つげ義春には「蒸発旅日記」のほかに「自殺未遂」「四倉の生」「妻のアルバイト」の随想記があります。